(仮訳) 1995年『大地と自由』公開時のケン・ローチ インタビュー②

昨年(2017年)10月のスペイン・カタルーニャ独立住民投票以降、日本でも耳にする機会の(ほんの少し)増えたカタルーニャの独立問題ですが、ローチ映画ファンなら、この話題で『大地と自由』(1996年日本公開)を思い出された方もいらっしゃるのではないでしょうか?ご覧になった方はご存じの通り「カタルーニャの独立」についての映画ではありませんが、カタルーニャ問題の背景の一端を担うテーマではあると思います。(スペインでも、ちょうど10月頃にテレビ放映されていたそうです。)

今回紹介するのは1995年秋に『大地と自由』がイギリス/アイルランドで公開された際にアイルランドの情報紙と映画専門誌に掲載されたインタビュー記事です。20年以上前の発言ということになりますが、今読んでも十分示唆に富み、また今読むと一層味わい深いブレないローチ節満載の内容になっているかと思います。

但し、元記事はインターネット普及前の紙媒体ですので(デジタル化されたものも探し出すことが出来ず)、リンク等はございません。元記事をご覧になりたい方は「¿(仮訳)?」等よりご相談ください。

②はアイルランドの映画業界誌(公式サイトはこちら)に掲載されたインタビューです。娯楽としての映画情報誌ではなく、映画産業従事者育成を目的とした団体の機関紙的なものなので、内容は『大地と自由』の話というより映画製作中心ですが、技術的な話だけでなく、労働問題としての映画製作のあり方などについての言及もあり、ローチの哲学がよくわかる内容です。


スペインの銃
Spanish Guns

(愛『フィルム・アイルランド』1995年10月-11月号)
Film Ireland (49), October/November 1995
by Mike Collins
*留意点*
  • 初めてこのブログを読まれる方は↑TOPメニューの「¿(仮訳)?」も併せてお読みください。
  • タイトルに関しては何かの隠喩かと調べてみましたがさっぱりわからなかったので直訳しました。ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示ください。
  • 映画等作品名表記について:日本劇場公開作は『』で表記、未公開作は原題を<>で、(DVD等)邦題があるものについては邦題を『』で、ないものは日本語訳を「」で併記しています。
  • 「※」付きの説明は訳者註です。

ケン・ローチ監督は最近ダブリンに来ていた。スペイン内戦を描いた新作『大地と自由』のプロモーションのためだ。マイク・コリンズがローチに新作とインディペンデント映画製作への彼の筋金入りのコミットメントについて訊いた。

- 「重要な社会問題を扱った映画を撮ることを信条とする確信的社会主義者」として、いつも世間に紹介されることについてどう思われますか?
「とても不幸なことだと思います。そう言われることによって、人々にある特定の先入観を持たれてしまい、その人たちは映画ができ上がる前から、その内容を知っているかのように思ってしまいますからね。もしも、そういったレッテルばかりが際立ってしまったら、人々は目の前に映し出されている映画をちゃんと観なくなります。だから、映画の上映後のディスカッションなどでは、映画マニア(※映画ファンや映画評論家、関係者)の人たちとの討論より、そうでない人たちとの方が、よりよいものになります。映画マニアでない人たちは、自分の知識や固定概念に当てはめたりせず、映画が伝えようとしていることをそのまま受け取りますからね。そして、そうしたレッテルというものはまた、メディアが物事の本質を歪め、無効化するのに用いる手段でもあります。」

- あなた自身は、自分のことを「確信的社会主義者」と呼びますか?
「私は自分に対して如何なる呼称も付けません。レッテルや肩書きは避けるに越したことはありません。」

- でも、あなたの仕事は明らかに、ある特定の政治的・社会的信条に基づいて行われていますよね。このことは『大地と自由』の様な作品を作る過程に、実際にどう反映しているんでしょうか?
「どんなことでも映画全体の雰囲気に寄与しています。カメラの前での役者の振る舞いは、概してカメラの後ろ側の状況を反映しているものです。もしも、カメラの後ろに、緊張や怒鳴り合いといったものがあれば、役者たちは自分の安心できる場所―ありふれた型通りの演技や、彼らが身につけている技巧・小細工―に引きこもってしまいます。攻撃を恐れ冒険を避けようとするのです。役者にとって良い演技をするのに一番大切なことは、冒険を恐れず、無防備に、オープンになることだと思います。こういった役者のコンディションは、ヒエラルキーや暴力的な雰囲気のある現場では得られません。しかし、そういう殺伐とした雰囲気は、映画のセットのまわりにしょっちゅうあるものです。現場ではいつもエゴのぶつかり合いがあふれていますから。ですから、主役が誰であろうとも、その人が食事のときに、一番新米の電気技師と同じ列に並ぶということはとても大事なんです。私たちは、そこにどんなヒエラルキーもないことや、みんなが、一にも二にも、何をおいても、友人として扱われることを保証するために最善を尽くします。」

- その考えはあなたが映画を作り始めたときから重要なものとしてあったんですか?
「かなり早い段階で常識になったとは思います。でも、長編第一作(※『夜空に星のあるように』)を作ったときは、そんな風には行きませんでした。キャロル・ホワイトが主演女優だったんですが、私は彼女に『君は他のクルーと全く同じ扱いを受けることになるよ。特別扱いはしないからね。専用キャラバンも用意しないし、スタントもなしだ』というようなことを言いました。そして、彼女も同意しました。ところが、次の週に主演男優がやってきたとき、こともあろうに、自分専用の巨大なキャラバンを連れてきたのです。私に内緒でプロデューサーが手はずを整えていたのです。そこで、キャロルがこう言い出しました。『私のキャラバンも用意してよ。あれより大きいのを。私はスターなんだから。』当然、すべてが無意味な茶番と化しました。それはひどいものでした。それで、そのとき『もうこんなのはごめんだ、二度と繰り返さないぞ』と誓ったのです。」

LF04
※現地配布チラシ(内側見開き)
- 『大地と自由』のように、複数の役者を同時に起用するとき、その映画やシーンに必要な雰囲気を作る上で、何か特別な取り組み方をしているんですか?
「それは、まさに下準備の段階ですることなんです。庭仕事で、土に入れる肥やしのようなものです。各場面で、役柄と同じ感情を持つ人を選ぶだけです。そして、おかしなプレッシャーをかけたりせず、役者をいきなりその状況に置くのです。これをやるには、役者たちは監督を信頼しなければなりませんし、監督も役者を信頼しなければならないのです。そのために、オーディションというものがあるのです。役柄に相応しいであろう反応をする人を探し、彼らの直感を信じるのです。それから後は、エモーショナルなシーンの前には、全エネルギーがお腹の方に集中してしまうほど沢山のご飯を食べないよう役者に注意する、とかいう、くだらないけれども大切な細々したことがあります。」

- 役者たちは映画のあらすじを知らされず、撮影当日に、その日撮影分の脚本を渡されるわけですが、役者たちにとって、そのやり方はちょっと不安なんじゃないですか?
「別にそんなことはありませんよ。ちょっと不安なときもありますけどね。でも大丈夫です。このやり方はとても建設的だと思いますけどね。順撮り(※あらすじ通り順番に撮影すること)することはとても大事なんです。その日の撮影が次の日の撮影のリハーサルになるわけですから。役者に自分の演技に対する解放感を与えると同時に、その他の諸々の事柄と咬み合った道筋を彼らが確実に踏みしめられるよう努力しなければなりません。ある程度の、対処できる範囲内での混沌は必要なのです。それによって、自由な雰囲気も生まれますからね。もし全てがきれいに選別され、完全に統制されたら、映画は死んだも同然です。だから私はヒッチコックの映画が嫌いなんです。彼はとても退屈な監督だと思いますよ。だって役者を暗号のように扱うでしょ、だから役者も暗号のように演技するんです。」

- 多くの映画製作者、特にプロデューサーにとって、順撮りは多くの物理的な(※予算上の)困難を生み出すものとしてみられる傾向にあると思うんですが、そんな中で、あなたが実際に順撮りを決行できるのはどうしてなんでしょう?「まず脚本ありき」というやり方をすることはないんですか?
「いいえ。そんなことをしたら、本末転倒になってしまいますからね。他の方法なんて考えられません。私たちはスペインで6週間、イングランドで2、3日かけて『大地と自由』を撮りました。このことが役者たちにもたらした利益は計り知れません。私たちは予算と一緒に映画を作っているのではありません、役者たちと一緒に映画を作っているのです。だから、彼らこそ優先されるべきなのです。話が展開するにつれて、次第に役柄の性格形成を理解していけたとき、彼らは最高の演技ができるのです。あるシーンを撮影しているときに、新しいアイディアが浮かぶこともあるでしょう。そんなときに、もしも、もう次のシーンを撮ってしまっていたら、そのアイディアを生かすことはできません。次のシーンで役者たちがどんな風に入り口から入ってくるか、すでにわかっていますからね。」

- 脚本のジム・アレンとは随分長いつき合いですね。脚本家と監督という立場での、あなた方の仕事上の関係というのはどういったものなんですか?
「パートナーです。誰が何をするかを細かく言うことは、とても非建設的なことなんじゃないでしょうか。創作活動において自分の管轄をはっきり決めたりしたくありませんし。ジムは作家で、私はどうしても脚本を書くということができないのですが、脚本作りでは彼と共同で作業します。私たちは映画の核心部分について綿密に話し合いますし、彼が脚本を書いているときは、資料やアイディアや草稿などを送りあいます。ジムは撮影そのものには、そんなに興味があるというわけではないので、撮影現場にはあまり来ることはありません。」

- 映画を作るにあたって、それが劇場公開用かテレビ放映用かというのは、あなたにとって重要なことですか?
「まあ、私たちは気持ちの上ではいつも、劇場用のつもりで映画を作り始めるんですけどね。視聴者がテレビ番組に対して集中できる時間というのは今や相当短いですからね。それとくらべると、やっぱり劇場で観る映画の影響力というのは、かなり大きいですし。どちらにせよ、劇場での上映が先になるというだけで、映画はそのうちテレビ放映されるわけですから、監督にとってわざわざテレビ用映画を撮る意味というのは殆どないと思います。それに、劇場用映画製作の費用も昔ほど高くなくなりましたし。」

- キャストやスタッフの賃金の支払いを後回しにするという、最近のイギリスの長編映画製作業界の傾向をどう思われますか?
「そういった、スタッフを無償で働かすような映画製作を目論むプロデューサーには、はっきりと異議を申し立てます。映画製作で何らかの利益を受けるのは、まず監督です。自分の映画を実際に作れるわけですから。その次に多分、カメラマン、それから主要人物を演じる役者たちでしょうか。それ以外の人たちは、映画製作そのものからは全く何の利益も受けずに、ただ仕事をしているのです。彼らには、家があり、養わなければならない人がいる人も多くいるでしょう。彼らは生活の糧を得るために映画製作現場で働いているのです。映画関係者で一番喜ぶのは映画が安く買える配給元です。そして、次の機会に、別のスタッフに対して、彼ら配給会社は『誰々はあの仕事を殆ど無償でやったんだから、お前に同じことができないはずはないだろう?』と言うのです。
映画産業というのはとても『おいしい』業界なのです。これで儲けている人たちは無償で働いたりはしません。ですから、私たちも無償で働くべきではないんです。プロデューサーは(※映画産業の労働組合の)労働協約をちゃんと守るべきなのです。私たちが最近作った4本の映画では、組合員スタッフを協約に合ったレートで雇いましたが、どれも費用は100万ポンド以下でした。アマチュアがアマチュア映画を作りたいというのなら、問題はありません。でも、もしその映画が映画館で上映されるなら、配給会社であれ、映画館であれ、その映画を買う人は、労働協約に規定された賃金を支払わなければなりません。私たちは、『この映画産業をコントロールしているのはドル箱産業関係者で、彼らは、私たちの作る映画を商品として扱っている』ということを、はっきりと明らかにしておかないといけないと思います。正当なスタッフ雇用と、賃金の保証のための組合の創設には、大変長い歳月がかかりました。そして、それを壊そうとする人(※組合解体を目論む人)は、絶対に間違っているのです。」

- あなたが今までより大きな予算で映画を製作できるチャンスは目前という気がしますが、そのことに関心はありますか?
「ないですね。費用が大きくなるほど、制限もきつくなります。大予算映画では誰も大博打を打とうとはしません―制作者側は、ある特定の役者を起用したり、ある特定の法則性を持った脚本を使うことで、何らかの保障を得ようとするのです。ヨーロッパ規模の映画なら、今すぐにも製作に取り掛れます。そして、勿論それがまっとうな映画であればですが、その興行収入やテレビ放映料などで、充分もとが取れると確信しています。その条件での限界は唯一、作り手の才能、作り手の想像力だけなのです。」

- あなたは、映画製作中のどんなときでも新たな企画を最低3つは持っているそうですが、創造意欲をかき立てるために、充電期間をおいて、他の娯楽を楽しむといったことはないんですか?
「ないですね。ただ仕事を続けるのみです。人並みの休暇で充分ですよ。映画作家というのは、どうも自分たちのことを、ことさら深刻に考えすぎる傾向にあるようですね。映画を作れる立場にあるなんてラッキーじゃないですか。そういうことです。」

※『大地と自由』英語版予告編

(仮訳) 1995年『大地と自由』公開時の
ケン・ローチ インタビュー①も読む


back to
top