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空軍除隊後、彼は法律を学ぶためオックスフォード大学に入学した。大学では演劇部で熱心に活動するようになり、ダドリー・ムーアと共に寸劇を演じたり、演出もするようになった。学業の方はおろそかになり、(※4段階評価中)3の成績で卒業し、演劇の世界で生きて行こうと決意した。父親は打ちのめされた。
ローチはいつも演技をしたいと思っていた。「15の時から演技に取りつかれていたのです。」誰かお手本になる人はいたのだろうか?「マリウス・ゴーリングという昔の俳優がリチャード三世を演じるのを観て、これは最高だ!と思ったのを覚えています。だから自分が演じる時に何らかの影響はあったでしょうね。」ローチ青年は良い役者だったのだろうか?彼はくすりと笑い「そう言うにはちょっと無理がありますね。でもまあなんとかうまくやり切りました」と言った。今でも、本当は自分は俳優として十分競えたと思っているような気配を漂わせつつ。彼の妻のレスリーは、普段は夫に対しこの上なく誠実なのだが、彼がどうしようもない大根役者で、自分の映画には絶対に起用しないタイプだと私に教えてくれた。これに対して何か反論は?「もちろんその通りです。でもわかりませんよ!」
彼はノーザンプトン・レパートリー劇場の助監督の仕事を得た。「1~2役なら演じられるんじゃないかと思っていたのですが、明らかに、演出家は私を役者として全く信頼していませんでした。パントマイムの役ですら貰えませんでした。それで演出に専念した方が良さそうだなと思ったのです。」
1963年に彼はBBCに移り演出見習いとなる。ほどなく、警察ドラマ<Z-Cars>(「パトカー/警察車両」)を演出する。そこで、彼は若き社会主義作家の面々に出会う。それは、トロイ・ケネディー・マーティン、ロジャー・スミス、ネル・ダン、バリー・ハインズ、ジェレミー・サンドフォードといった面子で、自分達の傑作でローチを育て、彼を政治的にしていったのだ。
ローチは彼の進化した政治信条について父親と議論したのだろうか?「していません。彼は自分の息子が自分に挑戦してくるなんていう発想を好みませんでしたから。私が何について話しているのか自分でも分かってないと彼は思っていたみたいです。自分が何について話しているのかを知るには、父のような人たちと同じ場所で働き、父が付き合っていたような人たちと付き合い、日の当たらない場所で生きる厳しさに直面しなければなりません。」
※元記事:
https://www.theguardian.com/film/2016/oct/15/ken-laoch-film-i-daniel-blake-kes-cathy-come-home-interview-simon-hattenstone
